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粗大ゴミの新サービスです

日本においては、中国等への輸出が急増し、国内リサイクル産業へ打撃を与えている。

また、近年、リサイクル可能な有価物に関しては、取引価格が上昇しており、

廃棄物(はいきぶつ、Waste)とは、不要になり廃棄の対象となった物および既に廃棄された無価物を指す。

賢くて強いと思っているが、実は束縛されて何も見えていない人なのだ。
気高い宝を与えられながら、それを投げ捨てたまま気付いていない。
死をもたらす「指環」だけは守ろうとする。
リビヤルト・ワーグナー「神々の黄昏」より(英雄ジークフリートにラインの乙女たちが投げかけることば)
これは、柄にもなく、気忙しい人生を送ってきたひとりの男(自称「時間貧乏人」)の、いささかの反省が籠められた本です。
ただ、この男の職業柄、そういう反省を個人的体験記に止めることができなくて、世の中のことにまで話を拡げています。
ジャーナリストと言われる職業に長年、身を置くとういそういうお節介を焼きたくなるのが、「職業柄」の意味ですが、柄と言うより「職業病」なのかもしれません。
もちろん、ワーグナーの楽劇に登場する不死身の英雄などではありえないのですが、英雄、凡人を問わず、何のために生きているのかわからなくなることがあるのは人の常です。
「神々の黄昏」は、序夜(「ラインの黄金」)をふくめ四夜続く舞台祝典劇「ニーベルングの指環」の最後に当たる作品ですが、正味一五時間を超える長大なライフワークでワーグナーが何を表現したかったのかについては、長年の議論、解釈が続いています。
登場人物たち(神もふくめて)が奪い合う黄金の指環は、それを手に入れた者に世界を支配できる全能の力を与える代わりに、愛することを諦めなくてはならず、死に至る呪いがかけられています。
いち早く、この作品の主題は「資本主義」だと主張したのはバーナード・ショー(イギリスの作家)でした。
さしずめ、今の資本主義だと、指環を得ようと格闘する人物たちと六本木ヒルズ族とが二重写しになるかもしれませんが、同じ資本主義と言っても、いろいろな形があり、変遷があるのは私たちが見てきた通りです。
いや、そんな名が付けられる以前から、似たような営みを人類はやってきたのかもしれないのです。
話はいきなり飛びます(それが私の癖でもあります)。
まえがき静岡県に掛川というまちがあります。
この本でも、全国で最初に「スローライフ・シティ」を宣言した市として登場しますが、そこに大日本報徳社という古い建物があります。
「徳に報いる」(報徳)とは何かと言えば、二宮尊徳(金次郎)という江戸時代の人物を顕彰し、その教えを伝えていこうということです。
おもしろいのは、この敷地に入る時に通る二つの門柱に刻まれた文字です。
一方には「経済門」、もう一方には「道徳門」と記されています。
「道徳なき経済は罪悪である。経済なき道徳は寝言である」という尊徳の教えを、それは象徴しているのです。
「手本は二宮金次郎」と小学唱歌にも歌われていたこの人物は、戦争が終わるまで、この国の初等教育での「お手本」でした。
薪を背負いながら本を読んでいる銅像が全国どこの小学校にもありました。
戦前教育のシンボルだった人物を葬り去りたい戦後には、銅像は姿を消し、忘れ去られました。
彼が説く「倹約」より「消費」が美徳の時代がやって来ました。
そうやって母国では顧みることがなくなった二宮尊徳に脚光を当てているのは、意外にも近年の中国です。
北京大学を中心に「尊徳学会」が作られ、研究が進められています。
周知のように、中国は猛烈な勢いで経済発展が進行中ですが、このままでは「道徳なき経済」に突進してしまうおそれがある、それに歯止めをかけるには尊徳の教えが有効だというのです。
しかし、中国にはそれこそ日本もお手本にしてきた孔孟の教えなど、歴史的にたくさんの思想家がいたはずだという疑問が当然湧きます。
いや、彼らは道徳を説くには有用かもしれないが、経済への配慮はそうないうまり「経済なき寝言」になりかねないというのが、尊徳に注目した中国人研究者たちの答だそうです。
実際の尊徳は財政破綻に見舞われた藩に招かれては建て直しを重ねた〝リストラ名人″だったのですが、その実像、偶像化された虚像をどう評価するかは、いろいろあってよいでしょう。
そういうなかで、私が興味深いと思うのは「経済門」「道徳門」で示されている両義性です。
どちらか一方が大事だ、どちらが正しい、とは言わないなかで、答を見付け出そうという態度がそこにあります。
小学校の銅像も「勤勉の教え」ととられ、今どきの道路でそんなことをしたら危険千万、今に通用する話ではないと思われるでしょうが、背中の薪を「労働」、手にしている本を「学習」の象徴と見なせば、その両方が必要だという「両義性のすすめ」と解釈することもできます。
私はこの本で「ゆっくり、ゆったり、(心)ゆたかに」というスローのすすめを書いていまえがきるのですが、一九八〇年代半ばに雑誌編集長をしていたころのことをあらためて思い出します。
円高がひたひたと押し寄せているなかで「日本人はもっと休むべきだ」というキャンペーンに近い誌面を作った時ですが、円高克服のため、もっと働かねばならないというのが世の趨勢だったので、編集部内も賛否半ば、社内外から「何、寝言を言ってるんだ」と猛反発を浴びました。
その後も円高を克服するため「雑巾をしぼっても滴も出ない」までの努力が重ねられ、克服するから次の円高がやって来るという連続で、やがてバブルに突入していきました。
「スローのすすめ」にも、似たような反応があります。
停滞、不況続きの経済状況のなかで、さらにペースを落としたらどうするのだ。
とんでもない論を持ち出す奴だ……。
それについての反論は、本書のなかでいろいろな形でしていますが、「スローか、ファストか」の二者択一の話をしているのではないのです。
むしろ、両義性のなかで議論をしようとすすめているのです。
私たちのご先祖が使ってきた「緩急自在」という絶妙な熟語を副題にしているのも、そのためです。
その上で、これまでも、これからもますます「フアスト」になりそうな世の中で、「スロー」の効用がかえってあるのではないか、と主張しているのです。
それがなかなか説得力を持ちにくいのは、こちらの力量不足もありますが、それを受け止める側にも原因があります。
何事を考える時も、尊徳流に言えば「経済門」があまりに大きすぎて、思考のどまん中に居坐りすぎているのです。
実は「スローライフ」などとことさら言い立てなくとも、生命という点では、平均寿命がこんなに伸び続けているのですから、否応なしに私たちは「ゆったりとした生」を生きています。
八〇歳を一応の寿命とすると、私たちには約七〇万時間の生があります。
一方では労働時間が短くなる流れはこれからも続くでしょうが、目一杯働く場合、たとえば土、日、祝日、年休などを引いて一年に二〇〇日、八時間労働を二〇歳から六〇歳まで四〇年間続けるとしても、六万四〇〇〇時間です。
生きている時間の一割にも達しないのです。
尊徳さんは勤勉なモラリストですから、「経済」と「道徳」、「労働」と「学習」とを対比させました。
しかし、この時間比から言うと、人生の「一〇分の一弱」対「一〇分の九強」の対比ということも出てきます。
「一〇分の一弱」(経済=労働)を「ファスト」で行くのはよいとしましょう。
でも、人生の圧倒的な部分を占める「一〇分の九強」も、前者のペースに引き込まれて「ファスト」まえがきを続けるのですか、というのが本書の問いかけていることです。
だから、取り扱っているのは主として「一〇分の九強」に関する部分なのですが、「ファストがよい」という経済の領域にも一点、重大な留保があります。

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